2016年11月1日火曜日

新生活 20

 秘密を抱いていることを秘密にしなくて良くなったので、ダリルは幾分気が楽になった。そのせいでもないが、翌朝、寝坊した。目が覚めると、隣のベッドは既に空っぽでベッドメイキングさえしてあった。彼は慌ててベッドから飛び出し、顔を洗うのももどかしく着替えを済ませた。キッチンには何もない。水だけ飲んで、遺伝子管理局へ走った。
世間はすっかり日常の慌ただしさで、本部に入ると職員達が忙しそうに歩き回っていた。
 ポールのオフィスのドアをそっと開けると、チーフは電話中だった。ダリルは足音を立てずに自身の机に忍び寄り、席に着いた。コンピュータのファイルを開き、業務を始めるのを、ポールが電話で喋りながら横目で見ていた。
 ダリルの耳にようやくポールの話し声が言葉として入って来た。

「・・・ええ、元気ですよ。今し方出勤してきました。・・・病気じゃありません。ただの寝坊です。」

 ダリルは己のことが話題になっていると気が付いた。相手は誰だ?

「・・・どうして起こさなかったのかって? 起こそうとしましたよ、10回も声を掛けたんです。・・・あのですね、寝ているセイヤーズの体を揺すって起こすなんて、自殺行為なんですよ。俺はガキの頃、何回殴られたか、覚えきれませんよ。・・・そうです、自然に目覚める迄ほっとくのが一番なんです。だから、朝の食堂に彼が来なかったからと言って、副長官が心配なさる必要はないんです。」

 なんとなく話の概要がつかめた。朝食会にダリルの姿がなかったので、執政官の誰かが心配して副長官に報告したのだ。ダリルの健康は中央研究所にとって重要課題だ。人類の未来が懸かっている種馬が健康を損なっては困るのだ。
 ポールが電話を終えたので、ダリルは遠慮がちに「おはよう」と声を掛けた。ポールは返事の代わりに、「髪の寝癖をなんとかしろ」と言った。

「かねてから疑問に思っていたが・・・」

とポールがコンピュータの画面を見ながら言った。

「朝寝坊の常連だった君がよく子供の躾けをやってのけたもんだ。」
「山の家では、時計はなかったんだ。日が昇ると起きて、沈むと寝た。」
「自由気ままに暮らしていた訳だな。」
「・・・まあね。」
「ドームに戻ったんだから、ドームの生活リズムに早く馴染め。ライサンダーはラムゼイの家できちんと早朝に起きていたぞ。」
「了解、チーフ。努力する。」

 ダリルが仕事をしていると、ポールが席をたって部屋の奥にある休憩スペースに行った。そこで湯を沸かし、お茶を淹れると、ダリルの机にビスケットと共にカップを置いた。

「どうせ朝飯は食ってないのだろう? それで昼迄我慢しろ。」
「有り難う。」

 熱いお茶とビスケットと軽く脳を使う仕事のお陰で頭がはっきり覚醒してきた頃、事件が起きた。
 そのことが起きた時分に、ダリルはアメリア・ドッティに電話を掛けていた。
アメリアはダリルが用件を告げると、「またお仕事なの?」と不満そうに言った。「申し訳ない」とダリルは謝った。

「しかし、上司がどうしてもこの国のトップとお話したいと言うもので・・・」
「ああ、本命は従兄のハロルドだったのね。」

ダリルは目を閉じた。大統領ハロルド・フラネリーがメーカーと通じているなどと想像すら出来ないが、母親がトーラス野生動物保護団体の会員なので、その家族の思考も読みたい、とポールが言い出した。ハロルドはアーシュラ・R・L・フラネリーの長男で、父親の葉緑体毛髪と政治能力を受け継いでいる。恐らく、母親からは接触テレパス能力をもらっているはずだ。考えたら、ハロルドとポールは、顔が母親似か父親似かと言うだけで、「ほぼ同じ」ものを遺伝している兄弟だ。

「一両日中にお返事を差し上げます。」

とアメリアが言った。

「ところで、面会は伯父の別荘で行って頂くことになるでしょう。少し遠いですよ。」
「かまいません。そちらのご都合に合わせて参ります。日時と場所はそちらにお任せします。」
「今回は誰がご一緒されるのかしら?」

そう言えば、アメリアはポールがお気に入りだった。ダリルは、「上司です」と言ってから、言い添えた。

「ご存じの、レインですよ。」
「まあ!♪」

アメリアの声のトーンが上がった。

「伯母の秘書が気に入った南米系の方も来られます?」
「ああ、クロエルは今回は行きません。彼は中米勤務が本業なので・・・」
「あら、残念! とっても魅力的な方だとお聞きしましたのに。」

アメリアは電話口で笑った。

「でも、貴方お一人で来られても、大歓迎ですからね、ミスター・セイヤーズ!」

電話を終えて、ダリルはポールに、「交渉しておいたぞ」と報告した。

「まるで遊びに行く約束みたいだな。」

とポールが笑った時、緊急を告げるメール着信音が2人の端末から同時に聞こえた。