2017年8月22日火曜日

後継者 1 - 5

 胴着に着替えたハイネ局長と訓練生クロエル・ドーマーは格闘技場で向かい合った。渋々審判を引き受けた教官が号令を発すると、2人は礼をして組み合った。ハイネはクロエルの帯をすぐに掴んだが、クロエルには自身の帯を掴ませなかった。クロエルは力で相手をねじ伏せようとしたが、ハイネは動かない。クロエルは覚えた技を掛けてみたが効かない。しかしハイネに攻撃をさせないで動きを止めるのは成功した様だ。
 訓練生達が周囲を取り囲んでクロエルに声援を送った。おちゃらけたクロエルは仲間から浮いているかと思っていたが、そうでもないらしい。周囲に迎合するでなく、自分と言うものを保っているので、同級生達から信頼されている様だ。
 クロエルの顔から余裕の表情が消えた。相手を老人だと思って甘く見ていたのが過ちだったと気が付いたらしい。ハイネは年寄りだが、肉体は40代の男盛りだ。そして彼は若者を決して甘く見ていなかった。少しでも油断すれば必ずクロエル・ドーマーは見逃さないはずだ。ハイネの真剣さにクロエルも気が付いた。これは真面目にやらないと痛い目に遭う。
 相手の帯を掴めないまま、クロエルはハイネをもう1度捻り倒そうとした。しかしハイネは一瞬彼の帯を放したが、すぐに握り直しただけだった。
 審判をしている教官がケンウッドをチラリと見た。試合が長引くと局長が疲れる、と彼は心配したのだ。早く止めろ、と言うことか・・・とケンウッドは理解した。
 ケンウッドはハイネに声を掛けた。

「早く決着を付けろ! もう昼だぞ!」

 するとハイネが彼をチラッと見て、次の瞬間、クロエル・ドーマーを払い腰で倒した。一瞬の出来事で少年は我が身に何が起きたのかわからず、床の上でボーッとしていた。審判が局長の勝利を告げた。
 クロエル・ドーマーが立ち上がり、ハイネと向き合ってお辞儀した。

「参りました。」

と素直に彼が言った。ハイネが、流石に肩で息をしながら言った。

「君は体重があるから力で相手を倒そうとする。技をもっと勉強しなさい。教官の指導はきちんと聞いて体得すること。技を覚えれば疲れずに済む。」
「肝に銘じます。有り難うございました。」

 教官が訓練生達に昼休みに入るようにと声を掛けた。少年達が更衣室に走って行くと、彼はハイネに礼を言った。

「有り難うございました。クロエルは最近自分より強い者がいなくなったので、ちょっと天狗になっていました。今日のことで少し反省したはずです。」
「誰にでも経験はあるさ。私も久し振りに良い運動をさせてもらった。授業の邪魔をしてすまなかった。」

 教官と別れてハイネは更衣室に行った。ケンウッドは教官に尋ねた。

「クロエルは遺伝子管理局に入る予定かね?」
「そのはずです。」

 教官は端末に授業内容を記録しながら言った。

「あの子は外から来ましたから、抗原注射の必要がありません。それに維持班に入れればきっとエネルギーをもてあまして問題を起こすでしょう。」
「外の世界を懐かしがって逃げる恐れはないのか?」

 教官はその質問に驚いてケンウッドを見た。

「クロエルが逃げる? 確かに執政官にはそんな心配をなさる方もいらっしゃる様ですが、私はその可能性はないと思っています。」
「どうして?」
「彼はここが気に入っていますから。」

 教官はドーマーだ。ドームの外の暮らしを知らない人間だ。ドームの中が清潔で安全でこの世で最高の場所だと信じているのだ。

「ブラジルで彼がどんな扱いを受けていたのか、私は知りませんが、ここでは彼は執政官のペットではなく、1人の男として扱っています。誰もが彼と対等です。神様みたいなローガン・ハイネ・ドーマーでさえ、彼とケーキを取り合って真剣に喧嘩してくれるんですよ。彼はここの生活を楽しんでいます。」

 暫くして更衣室から賑やかに会話をしながら男達が出て来た。中心に居るのはハイネとクロエルだった。ハイネが少年達に宣言した。

「今日の昼食に君達全員にフローズンヨーグルトを1杯ずつ奢ろう。」

 少年達が歓声を上げた。クロエルはハイネの手を取って甲にキスをした。

「局長、これから2度と貴方のチーズケーキを取らないと誓います。」

 ハイネは彼の肩を叩き、少年の群れを離れてケンウッドの横へやって来た。
 ケンウッドがお疲れ様と言うと、彼はちょっと愚痴った。

「もう少し早く声を掛けて下さいよ。危うく限界に来るところでしたよ。」
「そうかい? 君は全然余裕だったと思ったが・・・」
「いかなる時も余裕があると見せかけろと、子供時代に仕込まれたんです。」