2017年8月5日土曜日

侵略者 9 - 4

 ケンウッドが連絡を取った相手はすぐには繋がらなかった。月は地球の反対側にいたのだ。数秒の待機時間にクーリッジ保安課長の端末がリン長官に繋がった。その瞬間、ハイネがクーリッジの手から端末を取り上げ、電話を切った。クーリッジが局長の暴挙に驚いて、「おいっ!」と抗議の声を上げた。しかし、ハイネが唇に指を当てて「しっ」と制し、ケンウッドを目で指した。クーリッジはハイネの意図を瞬時に理解した。保安課長は長官への通報を数分間遅らせることを決めた。 
 月の地球人類復活委員会本部の執行部窓口にいたのは、ケンウッドには馴染みのない委員だった。彼は長官ではなく一執政官から緊急連絡が入ったので、訝しげな表情で画面に現れた。

「アメリカ・ドームの遺伝子学者ニコラス・ケンウッドです。当ドームから進化型1級遺伝子保持者が1名、脱走しました。危険値レベルS1の男性ドーマーです。」

 ケンウッドが一気に喋ると、相手は名乗ったがケンウッドは彼の姓がシラーだとしか聞き取れなかった。
 シラーは別のコンピュータをさっと操作してから、カメラに向き直った。

「アメリカ・ドームに危険値S1のドーマーはいないはずですが?」
「西ユーラシアから『直便』で遣いに来ていたのです。用事を終えて帰るふりをしてゲートから出たまま、姿を消しました。」
「脱走とは、確かですか?」
「彼は空港ロビーで現金を下ろしてバスに乗ったところまで確認が取れています。端末は放棄していました。」
「対象ドーマーはダリル・セイヤーズに間違いありませんか?」

 本部はケンウッドが知らなかった情報を持っていた。何故自分にその情報がなかったのか、とケンウッドは不思議に思えた。重要なことなのに、当事者のドームの執政官が知らなかったのは何故だ?

「そうです、ダリル・セイヤーズ・ドーマー、西ユーラシア・ドーム所属の遺伝子管理局の局員です。」
「何故、S1のドーマーが局員なんかしているのです?」

 そうだ、外に出してはいけないはずの遺伝子保有者を何故外勤務の局員にしていたのか? 安全な遺伝子を持っているハイネでさえ、生まれてから一度も外に出してもらえなかったのに。
 ケンウッドはハイネを見た。ハイネが口だけ動かして伝えた。

ーー説明するから来い

 ケンウッドはシラー委員に告げた。

「その件に関する詳細はこちらへ来ていただければお伝え出来ます。今は時間がありません。大至急捜索しなければ・・・」

 シラー委員は物わかりが良い人の様だ。頷くと、執行部を招集します、と言って、通信を向こうで切った。
 ケンウッドが深呼吸すると、ハイネがクーリッジに向き直って、「どうぞ通報を」と促した。
 クーリッジはもう1度リン長官に電話をかけた。長官は先刻の呼び出しで目覚めていたが、頭はまだぼんやりしている様子だった。まだ夜が明けていないと文句を言った。クーリッジがセイヤーズの脱走を告げても、ピンと来なかった。

「セイヤーズ・・・? 誰だ、そいつ?」
「当ドームで生まれて、昨年西ユーラシア・ドームに転属させたドーマーです。」
「ああ・・・」

 とリンの声がクーリッジの端末から聞こえた。

「あのブロンドの坊やか・・・だが、他所のドームのドーマーが逃げて、何故私がこんな早朝に叩き起こされないといけないんだ?」

 リン長官は「直便」が来ていたことも、「直便」がセイヤーズだったことも知らない。ポール・レイン・ドーマーは彼がセイヤーズを攫ったのではないかと疑って探りに行ったとクリスチャン・ドーソン・ドーマーが言っていたが、レインはきっと長官の手に触れて思考を探っただけで、何が起きているのかは告げなかったのだ。
 クーリッジはドーム行政に無関心な長官に教えてやった。

「セイヤーズは『直便』で昨日西ユーラシアから当ドームに来ていました。用事を終えて帰ったと思われたのですが、航空機には乗らず、ATMから現金を引き出してバスに乗り、何処かへ去りました。端末を遺棄していますから、自らの意志で行方をくらませたのは明らかです。」

 ああ、とまた長官は寝ぼけた声を出した。

「当ドームから他所のドームのドーマーが逃げたのは、確かに問題だな。」

 長官もセイヤーズの遺伝子情報を知らないのか? とケンウッドは呆れた。ドーマー交換を決めた時、長官は交換されるドーマーの全ての個人情報を吟味するのが義務だろうに。
 クーリッジがお馬鹿長官に一発お見舞いした。

「ハイネ局長が言うには、セイヤーズは進化型1級遺伝子危険値S1だそうですぞ。」

 長官は5秒間沈黙した後、大声を上げた。

「ぬぁんだぁってぇえええええ!」

 ケンウッドはハイネが小さな声で囁くのを聞いてしまった。

「あの大馬鹿者が・・・」